人種差別
2021年の現在でも人種差別のことは大きなニュースになる。この映画は1947年のメジャーリーグの実話だ。
私の中の人種差別
日本で言われる人種差別は黒人や白人というよりは中国や韓国のイメージがあるが、実際私の周りには韓国好きの人も多いし、日本で働いている中国人は優秀な人が多いと思っている。
街中で中国や韓国からの観光客を見ても、国内は当然、海外から訪れている観光客には親切にしようと思うし、コンビニでアルバイトしている外国からの留学生を見ても、自国語以外に日本語も話せる優等生なんだという見方をしている。
でも私自身が海外に行きたいとは思わない。何故かと言うと、日本人が差別される場所、嫌われている場所に身を置きたくないから。
アメリカの人種差別・人種隔離政策
人種隔離政策
人種隔離政策(ジム・クロウ制度)は、黒人が交通機関、公的機関、公共施設などの利用を禁止、制限した法律。奴隷制度廃止後、1896年、最高裁判所の公共施設での黒人分離は人種差別に当たらないという判決が1954年に覆るまで続いた政策。
メジャーリーグの登録選手(映画より)
- 1946年メジャーリーグの登録選手数400名全員が白人
- 1947年メジャーリーグの登録選手数399名が白人、1名が黒人
当時、黒人の選手が野球できるのはカンザスシティなどの2部リーグのみであった。
ドジャースに1名の黒人の野球選手を入れる計画
ブルックリン・ドジャースの会長ブランチ・リッキーは、黒人選手を入れることを決める。
リッキー会長が黒人選手を入れた理由(映画より)
かつて選手兼監督だった時、キャッチャーで首位打者だったチャーリー・トーマスという選手がいたが、リッキーは不公平なことを無視し、力になれなかった。しかし不公平なことを無視できない時がきたと話す。
ジャッキー・ロビンソン
スポーツ奨学金で高校へ進学、多くの大学から奨学生として誘いがあり、UCLAへ進学。
- 1943年、軍の幹部候補生学校を卒業
- 1944年、バスの座席をめぐってテキサス州のジム・クロウ制度により裁判となるが無罪(陸軍ではバスの中の人種隔離は禁止)
- 1945年、カンザスシティ・モナークス(ニグロリーグ)入団 300ドル/月
ブルックリン・ロイヤルズがジャッキー・ロビンソンと契約
- 600ドル/月・契約時3500ドル
- 条件 癇癪を抑えること
差別ある世間で、世間でやり返さない勇気が必要だと、条件を出す。
世の中に認めさせるためには2つのことが必要
- 立派な紳士であること
- 偉大な野球選手であること
ウェンデル・スミス
ジャッキー・ロビンソンの記録係・広報係・運転手としてリッキー会長に雇われる。その後、野球記者協会初の黒人記者となる。
ブルックリン・ロイヤルズ
ロイヤルズは、ドジャース支配下の3Aインターナショナルリーグのチームであり、リッキー会長はジャッキーと契約を結んだ。
1945年にユナイテッド・ステート・リーグという黒人選手を受け入れるマイナーリーグ組織を創設。1945年8月28日にジャッキー・ロビンソンとマイナー契約を結んだのをはじめ、ドジャース支配下のマイナーリーグのチームに多くの黒人選手やニグロリーグ経験者を集めた。このことがメジャーリーグにおける新時代の幕開けになった。
wikipadia
リッキー会長は、ロイヤルズの監督に公平に扱うように指示する。
ジャッキーのロイヤルズでの活躍
ジャッキーの走塁によりピッチャーをかく乱して1点を取ったことにより良く思っていない白人もいるが、「才能がある者にはチャンスを与えるべきだ」と応援する白人もいた。
リッキー会長
相手のピッチャーに揺さぶりをかけて、失敗してもいい。相手チームの脅威になれと。
ドジャースがジャッキー・ロビンソンと契約
1947年、チーム内の嘆願書
ジャッキーとの同じグランドでのプレイを拒否する嘆願書への署名を集める。
レオ・ドローチャー監督
レオ・ドローチャー監督は嘆願書に賛同した者を一喝するが、女優のラレイン・デイとの関係をリークされたことで謹慎処分となり、1947年は監督不在のまま開幕戦となる。
- 1939-1948 ブルックリン・ドジャースの監督
- 1949-1955 ニューヨーク・ジャイアンツ監督
- 1954年ワールドチャンピオン
1947年4月15日ドジャース開幕戦
- ドジャース × フィラデルフィア・フィリーズ
- フィリーズ監督 ベン・チャップマン(1945–1948)
ジャッキーは、チャップマン監督にニガーなどと罵られそれでも我慢する。チームメイトのエディ・スタッキーはたまらずチャップマン監督に歯向かう。
この出来事について
Stanky contributed to the breaking of the color barrier as a member of the Brooklyn Dodgers in 1947
https://en.wikipedia.org/wiki/Eddie_Stanky
チャップマン監督曰く
- ハンク・グリーンバーグはユダと言われ
- ジョー・ディマジオはイタ公と言われる
- ベン・チャップマンは1948年解雇
- エディ・スタンキーはカージナル、ホワイトソックス、レンジャーズの監督就任(1977)
シンパシーを感じる・シンパシーを抱く
リッキー会長曰く
フィラデルフィアの監督は、ジャッキーと共に苦しみを感じるというシンパシーを引き出してくれた。
チームメイトも世の中の変化と自分もそれを受け入れることを告げる。受け入れられない選手はトレードに出された。
ジャッキーとチャップマン監督2人で紙面を飾る
フィラデルフィア(フィリーズ)での試合にはジャッキーは連れてこないでほしいと打診があったり、フィラデルフィアのホテルはドジャースの選手と宿泊させないようにしたが・・・
フィリーズが差別主義
新聞に差別したことを書かれたフィリーズは差別主義に見られるのは困ると、チャップマン監督とジャッキーと2人で写真を撮り、和解した様子で紙面を飾る。
脅迫状
ジャッキー自身も多くの脅迫状を送られていたが、ジャッキーとチームであることで、チームメイトにも脅迫状が送られてくる。脅迫状についてはFBIも周知していた。
自己弁護
黒人は自己弁護さえもできない。1塁のクロスプレイでジャッキーが怪我をするが、自己弁護さえも生意気だと言われてしまう。
白人の少年がジャッキーのマネをする
白人の野球少年がジャッキーのマネをしていたと話す会長。
ドジャース ワールドシリーズへ
1947年、ドジャースは優勝、ワールドシリーズへ。
- ドジャース vs ヤンキース
- 1947年 ジャッキー・ロビンソン新人王獲得
- 1948年 ロイ・キャンパネラ入団
- 1949年 ドン・ニューカム入団
- 1955年 ヤンキースを破りワールドシリーズ制覇
1962年殿堂入り
背番号42
- 1962年 ジャッキー・ロビンソン 野球の殿堂入り
- 背番号42は全球団の永久欠番である
4月15日はロビンソンの偉業をたたえ全選手が42背番号を着ける
ブランチ・リッキー | 1967年 野球の殿堂入り |
ピーウィー・リース | 1984年 野球の殿堂入り |
エディ・スタンキー | カージナル、レッドソックス、レンジャーズの監督 |
ラルフ・ブランカ | オールスター3回出場 |
ディクシー・ウォーカー | 翌年ピッツバーグ・パイレーツへトレード |
エド・チャールズ | 1962年アスレチックス・1969年メッツでワールド制覇 |
ウェンデル・スミス | 野球記者協会初の黒人記者 |
エド・チャールズが子供の頃にジャッキーと会った時の様子が映画の中で描かれている(線路に耳を傾ける)
- 1973年 レイチェル・ロビンソンは、J・ロビンソン財団設立し奨学金交付する